世界のHIRO&YOKO

小坊ちゃんの愛称から 世界のヒロと呼ばれるまで

鳥居 弘忠は1940年2月23日、
大阪市船場でワイシャツの製造販売を営む問屋の三男に生まれました。
父親(良則)の経営していたその問屋は、
当時、西日本から朝鮮・台湾満州にまで商品を卸していて、
業界でも一、二位を争う大きさだったと言います。
裕福だった生家が父親の戦死と共に没落し、
女手一つで三人の子供を育てるために母親(清子)が始めたダンス教室で、
ダンスの面白さに目覚めたのは大学一年生の時だった。
弘忠は運動神経が抜群で、ジャンプ、幅とび、器械体操等、
学校で一番でみんなから注目をあびる花形でした。
それに音楽が大好きな少年でした。
もともとサラリーマンより自分の力次第でいくらでも可能性が
つかめる仕事につきたいと思っていました。
しかし母は「ダンスは男子一生の仕事じゃない」と大反対。
でも、弘忠の決心が固いことを知って許してくれました。
「本当にやりたいのなら真剣にチャンピオンになる気でやりなさい」
という母の言葉は、何度もその後の彼を支えてくれることになりました。

ダンスに青春を賭けて、大学も中退、順調に成績を上げて24歳でプロAクラス人りを果した。
プロになって数年、洋子に出会った弘忠は、
“競技経験はないものの、輝くような華がある”ことを見抜き、
すぐに”パートナーはこの人だな”と直感した。
パートナーを組んだ弘忠&洋子はすぐに猛練習を開始、毎日毎日夜中の2時半まで、
時には気付いたら夜が明けていたこともあったというほど練習に練習を重ね、
半年後には西部日本選手権で決勝に入り、11ケ月後には、全日本選手権9位に入賞した。
お嬢さん育ちで、そう体も丈夫でない洋子は、ダンスが心底好きだったこと、
そして”やるならチャンピオンに” という固い決心が辛い練習を耐えさせた。

その後も全日本5位,3位と順位を上げていくが、やがて壁に突き当たる。
そこで、かねてから考えていた英国へのダンス留学を決行しました。
1972年の秋、1ポンド860円の時代です。
今は170円位ですから世の中変われば変わるものです。
「自分が今まで踊っていたのは何なのか?と思いました。
それほど肌で感じた彼等の踊りは違っていたのです」と洋子は言う。
自信を失い、一時はダンスがめろめろになった。
そしてイングリッシュ・スタイルの踊りを体得するために、
それまでの自分達の踊りを一度つぶして再構築しなければならないことに気付く。
朝の5時過ぎから練習をする彼等にコーチャーや選手たちは、”クレイジーだ”と驚きましたが、
当時のラテンの世界チャンピオンであったアラン・フレッチャーは、
ヒロの胸までが足というくらい容姿に恵まれている。
日本人体型の弘忠が普通の努力をしたぐらいでは、追い越せるはずもありません。

17ケ月もロンドンにいながら観光さえ惜しんでダンスだけを見つめた。
ヒロ&ヨーコはお互いにダンスを始めた時からチャンピオンになることが夢でしたし、
チャンピオンになれば必ず幸せになれると思っていました。